『aftersun/アフターサン』娘視点の意味を考察【ネタバレあり】

『aftersun/アフターサン』の娘視点は、11歳のソフィが父と過ごす夏休みと、20年後のソフィがその時間をたどり直す眼差しの重なりです。子どもの頃に見えていた父と、大人になって思い描く父。そのずれが、楽しい旅行の記憶に痛みをにじませます。

『ひとやすみっけ』の かおかーさん です。親のことを知っているつもりでも、当時の気持ちまで分かるわけではないんですよね。この記事では、娘の視点を手がかりに映像の仕組みと父娘の関係を考えます。終盤のダンスやラストにも触れるため、ネタバレにご注意ください。

目次

娘の視点は、11歳のソフィだけじゃない

舞台になるのは、11歳のソフィが父カラムと過ごすトルコでの夏休み。公式紹介では、その20年後、父と同じ年齢になった娘の視点で綴る物語とされています。画面に子どものソフィが長く映るので、旅行中の彼女だけが語り手だと思いやすいところです。

でも、作品全体を包むのは大人のソフィの眼差し。ウェルズ監督も、MUBIのインタビューでその構造を説明しています。旅の出来事を順番に再生するというより、残された映像や記憶に向き合い、あの頃の父を理解しようとする映画なんですね。

わたしは、ここを入口にすると説明の少なさも受け止めやすいと考えます。父が何を考えていたのか、娘にもすべては分からない。その限界まで含めて描くので、出来事の答え合わせだけでは収まりません。

子どものソフィは、何も気づいていなかった?

娘は無邪気だったから、父の不調をまったく感じていなかった。そう言い切ると、ソフィの繊細さを取りこぼしそうです。監督はBFIのインタビューで、子どもは大人が隠すことにも間接的に気づく一方、自分を中心に世界を捉えるとも話しています。

ソフィには父と遊ぶ楽しさだけでなく、自分の興味や同年代の子たちとの時間もある。父の表情が少し曇ったとしても、その理由を言葉にして整理できるとは限りません。違和感を覚えることと、大人の事情を理解することは、やっぱり別なんですよね。

だから、後年の視点で分かることを、そのまま11歳の娘に求めたくはありません。あの場面で気づけたはず、と責めるための物語ではなく、当時は名前を付けられなかった感覚を大人の娘が拾い直す物語として読むことができます。

ビデオに残っているのは、父の全部ではない

旅行中のビデオ映像は、娘が父へ向けた視線を具体的に残します。カメラを回す遊びの中で、どんな父を見ていたのかが形になる。さらに父がその映像を見ることで、娘から自分がどう見えているのかに触れる仕組みもあるんです。

ただ、記録があるから気持ちまで証明できるわけではありません。笑顔が映っていても、その前後に考えていたことまでは残らない。撮られていない時間もあります。わたしが気になるのは、記録がはっきりしているほど、かえってその外側を知りたくなるところです。

監督はGirlsOnTopsの取材で、着想の一つになった自身の幼少期の映像が、頭の切れた何気ない記録だったと話しています。特別な瞬間ばかりが残るわけではない。その不揃いさが、ソフィの持つ手がかりにも重なります。

父だけの場面があるのに、どうして娘視点なの?

カラムがひとりでいる場面も映るので、娘の回想という説明と矛盾するように感じるかもしれません。ここは監督自身の言葉が手がかりになります。Slantの取材では、父がひとりの場面は、娘がいない間の父についての想像をある程度含むと説明しています。

つまり、ソフィが実際に目撃したことだけで全編ができているわけではないんですね。後から知ったことや、かすかな気配をもとに思い描く余地がある。だからといって、旅行そのものが作り話だったという意味でもありません。記憶に想像が入り込む構造です。

父の背中や、遮られた姿が多いことにも意味があります。すぐそばまで近づきたいのに、内面には届ききらない。観客に見える父の姿も、すべてを説明する客観的な答えとして受け取るより、娘の探す気持ちと一緒に眺めたいところです。

かおかーさん

父の場面が映ることと、父の心が全部分かることは別なんですね

父の年齢になって、見え方が変わる

大人のソフィが当時の父と同じ年齢になっている点は、単なる時間経過以上の重みがあります。子どもにとって父は、まず自分を守る親。でも同じ年齢から振り返ると、父にも迷いや余裕のなさがあったかもしれないと、別の輪郭が見えてくるんです。

ここからは作品の設定を踏まえた解釈ですが、ソフィは父親という役割の奥にいる、ひとりの人間を見ようとしているのだと思います。娘を大切にする姿と、自分自身を支えきれないような姿。その両方が同じカラムの中にあった、と受け止め直しているように読めます。

ただ、同じ年齢になれば父の気持ちを全部理解できる、という話でもありません。人生も環境も違いますよね。近づける部分が増える一方、埋まらない距離も残る。そのもどかしさが、懐かしいだけの回想に終わらない理由ではないでしょうか。

終盤のダンスは、ふたつの時間が触れる場所

終盤のダンスと、強い光が明滅する暗い空間は、娘の視点を考えるうえで大きな手がかりです。旅行の中の父娘と、大人のソフィが父へ近づこうとするイメージが重なる。わたしには、同じ時間へ戻れない娘が、それでも父に触れようとする場面に感じられます。

ただし、暗い空間を実際の再会場所だと決める必要はありません。監督はSlantの取材で、この空間を過去の像と向き合う場として尋ねられ、その捉え方に同意しています。出来事の続きを説明する場所というより、記憶を探る感情が姿を得たものと考えられます。

そこで流れるのが、クイーン&デヴィッド・ボウイの『アンダー・プレッシャー』。曲名や歌詞だけで父の事情を解き明かすより、父へ伸ばす手と、近づいては離れる距離に注目すると、娘の切実さが伝わってきます。

ラストから、父のその後まで断定できる?

ラストを踏まえると、父の不在や喪失を強く感じる読み方ができます。監督もBFIのインタビューで、作品を悲嘆に関わるものと語っています。ただ、そこから父のその後の具体的な経緯や時期まで、映画が明言した事実として書くのは飛躍があります。

大切なのは、娘が手がかりを集めても、父のすべてには届かないこと。カラムの苦しさを感じさせる描写はありますが、病名や行動の理由を一つに固定すると、その人の輪郭をかえって狭めてしまいます。分からない部分を残すこと自体が、娘視点の特徴です。

そして、悲しい読み方をしたからといって、父娘が楽しんだ時間まで偽物になるわけではありません。監督は、終わりの感情について、ふたりが共有した喜びを損なわせたくなかったとも話しています。笑い合った記憶と喪失感は、同時に存在できるんですね。

もう一度たどるなら、娘の見ている先へ

見返すときは、すべての場面を伏線として回収しようとするより、誰が誰を見ているのかに目を向けると違う発見がありそうです。ソフィが父へカメラを向けるとき、父が娘の記録を見るとき。同じ映像でも、見る側によって受け取るものが変わります。🔎

父の気持ちを言い当てられなくても、娘が何を大切に残しているかは考えられます。何気ない会話や、並んで過ごした時間が繰り返し心に戻ってくるのはなぜか。大事件の説明より、こうした小さな場面の重みを追うほうが、この映画の娘視点に近づける気がします。

『aftersun/アフターサン』の娘視点は、父の秘密をすべて暴くための仕掛けではありません。分からないところを抱えたまま、大切な人を見つめ直す眼差しです。まずは印象に残った父の表情を一つ選んで、11歳の娘と大人の娘ならどう受け取るか、思い浮かべてみてください。

この記事の内容は、公開時点で確認した情報をもとにしています。内容は変更される場合があるため、必要に応じて公式情報や各サービスの案内もあわせてご確認ください。

かおかーさん

この記事を書いている人

こんにちは、「ひとやすみっけ」を運営するかおかーさんです。子育てをしながら、家族で楽しめるお出かけ先や、毎日の暮らしに役立つ情報を集めています。埼玉南部の身近な話題から、子どもたちが好きなもの、大人もちょっと気になるものまで。「これ、よさそう!」と思える発見を、わかりやすくお届けします。

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